プロフィール  - Profile -

こんにちは、山口節子です。

第一の人生も終わり、第二の人生も幕を閉じるころになって、ふいにホームページを開いてみようと思い立ちました。実は最晩年の第三の人生というものがあり、この第三ステージこそが人生の中でいちばん素晴らしいのではないかと思えてきたからです。いらないものはすべて捨て去り、木の葉をふり落とした冬の木立のようにすっきりと立ってみると、人間関係も物との関係も、すべての景色が違って見えてくるから不思議です。

このホームページは、三男のお嫁さんが私を励ます意味で、作成してくださいました。ありがとうございます。では、ちょっと長い自己紹介からさせていただきます。

1936年1月、東京の神楽坂で生まれました。家は、今風にいうと女性専科のお店とよぶのでしょうか、化粧品や髪飾り、半襟、リボン、指輪、ハンドバッグに至るまでいろいろ取り揃えた「よろづや」です。父はこの家に婿として入ったハンサムな若旦那でした。お店は赤城神社の大鳥居の前に古くからあったようです。早稲田たんぼで蛍狩りをしたとか、「勝のご隠居」が女子衆を連れてよくお買い物に来られ、その品をお届けに上がったとか、早稲田大学の大隈重信学長のお馬車が家の前の道を通っていたとか、いろいろと明治生まれの亡母から聞かされておりました。店の斜め前の道沿いにあった大鳥居は戦火で焼失し今はありません。絵本の『ちえちゃんのおはじき』にも少し触れてあります。入学した赤城国民学校は2年生の終わりまでで、千葉県市原市に疎開しました。ですから人に「故郷は?」と問われると、神楽坂の夜店の賑わいや、コマ下駄の音、夜店の灯りをともすアセチレンガスの匂いが浮かんできだり、子ども時代を過ごした疎開先の総社村の神社や祭りばやしの音色が聞こえてきたりします。原風景としての二つの故郷が体の内側に浸み込んでいるような気がします。今回は故郷に触れながら書き出しましたが、次回はずいっと飛んで、虫プロ商事の漫画家手塚治虫さんのところで雑誌「コム」に関わり、その折に手塚治虫さんから新企画の雑誌「レオ」を創刊したいが、やってもらえないかと相談されたそのころのことから書いてみたいと思います。
山口節子プロフィール
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